京急立会川駅から第一京浜に出て品川寄りにホテルがあった。
そこは京浜ホテルといってたような記憶がある。
瀟洒なホテルと裏庭で高い木の塀で囲われていたが時々侵入してみたりした。
特に面白いものはなくブランコとベンチ程度だったがすぐに追い出された。
表は車寄せがあり入り口は閑散としてひと気もなかった。
その車寄せでローラースケートをした覚えがある。
ネットで調べても出てこない謎のホテルなのだ。
私が小さい時分の話だと裸体の女性が逃げ出していたという話を聞いたことがある。
つまり将校あたりにエゲツない行為をされたまらず逃亡とのことだった。
外観は立派だったが慰安に使われていたんだろう。
時々、家族連れが裏庭でのんびり遊ぶ光景を見たことがある。
なかなか優雅な雰囲気だった気がする。
昭和20年代だっただろうか、当時、銀座の和光も接収されて米軍PXデパートだった。
その近くに天賞堂があって模型を扱っていたようだ。
そこで将校が模型を見て製作を依頼したのが真鍮製模型の始まり。
それまでは紙、木、金属などで構成した模型だったんだろう。
直接注文したかどうかはわからないがブローカーがいたことは確かのようだ。
そのブローカーが金属加工業者を募って製造したのがUnited合同というネーミング。
カツミ模型店、鉄道模型社、天賞堂など中小のメーカーがあったようだ。
それらで大量に製造して米国で販売するルートが出来ていった。
それぞれのメーカーで特徴がある製品だった。
また、それらのメーカーから独立してたくさんのメーカーが誕生し、輸出産業から国内販売に移ったことと、創業者が老齢化したことで衰退したが今でも数社が残っているようだ。
その当時から少し後になった晩年の輸出用米国型模型を数多く所有している私としてはなんだか誇らしいというか日本の産業史に関わっているような気がしなくもない。
カツミ模型店が米国バルボア社に輸出した機関車。
この機関車はサザンパシフィック鉄道の4404機にしている。
しているというのは元々真鍮むき出しで輸出されたもので私がペイントした時にそのナンバーにしただけ。
ジェネラルサービス機として南回りで西海岸オークランドからヒューストンを走っていたもの。
4-8-4という動輪が4軸で前後に2軸の台車を備えている。
この軸配置は日本には当然なく相当巨大な機関車。
長大な貨車や客車を高速でといっても80キロ程度だろう、走っていた。この鉄道会社は石炭ではなく重油を燃料としていたのでそれほど煙害はなかっただろうが二酸化炭素中毒を防ぐために煙突には煙の方向を変える集煙装置が付いている。
日本ではトンネル内で煙による窒息死をした運転手が数名出たらしい。
これ以降のGS4-8-4は機関車上部をスカイラインケーシングで覆い集煙装置は付いていない。
こんな機関車を日本の零細な工場で製造されていた。
主要パーツのロストワックスは支給され日本は真鍮板、挽物、プレスなどの部分を作り組み立てていたと思う。
当然、数量はロストワックスの数量しか製造できないので横流しは大して出来ない仕組みだったがそれでも数輛は国内のお大尽に流れかなり高価だったようだ。
私のコレクションはほとんど米国からの逆輸入品。
つまり手に取ることなく米国雑誌の広告などで発注したもの。
鉄道模型はメイドインジャパンかどうか関税で引っかかる。
一応、芸術、工芸品とは認められていなかった。
かといって純粋な輸入関税でもなかった気がする。
1960年代は売春宿の稼ぎの他に着々と輸出で稼ぐ時代でもあった。
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