北原みのりさんって方が韓国に対する一部日本人の発言をヘイトスピーチであると表現していました。
その対比として米軍撤退などはヘイトスピーチではないという表現で両者を対立させるのは如何なものかと。
米軍撤退を訴えるのはその被害者の実態があると思います。
また、韓国に対する発言もその事実があると思います。
どちらも表現の自由を振りかざすまでもなく事実です。
ジャーナリストも表現の自由を訴えます。
世の中、言っていいこと、悪いことは個人の主観です。
それを人に押し付けたり、正義を語るのは間違えです。
あえて、表現の自由を規制して明文化している意味はなんですか。
それは口を閉ざすことが抑圧に繋がり、人権や尊厳を損なうことがあるからでしょう。
じゃあ、なんでもあり?
基本的にはそうです。
それに不快感を持つ方がいても当然でしょう。
それを表現の自由だからという言い回しは拡大解釈。
不快感を持つ方が多ければ何故不快なのか?
そこに答えがあると思います。
時代、文化、歴史など様々な背景があることを語るには全てに合理性が必要です。
どれかが欠けている論争は無意味です。
不快感がそのどれかに抵触、齟齬があれば考えるべきです。
個人的感情も大切な要素でしょう。
理屈抜きということです。
その感情を生み出した背景でしょう。
バックボーンを手繰ることで原因が判明するかもしれない。
例えば、韓国人に酷い目に合わされたとか騙されたとか。
そんな背景があれば全てを拒否したくなるのは容易に判断できます。
そんな体験がない方々には理解できないことでしょう。
それがヘイトスピーチだとするならばバカバカしい。
人の発言には根幹に何があるかを探ることも必要です。
表現の自由、ヘイトスピーチはすり変えられます。
理解し合えるということは同じ体験者だったり、似たような環境だったり様々な要因があり、理解できない方には全く見に覚えのないことと言うだけです。
その発言の真の意味を語らなければ判らないが語っても理解し得ないことはたくさんある。
つまり、表現の自由とヘイトスピーチは永遠に平行線なわけです。
0 件のコメント:
コメントを投稿