母親は60代に視力を失ってから心が安定していたのはカトリック信者だったからだと思います。
教会で信者の皆さんから励ましを頂きとてもおだやかに過ごせたと思います。
私も信者ですから空虚な老後になったら絶対に教会に行きましょう。
父親は山登りで体を動かし、金を動かし80代までは飲むと未来を語るような剛健さでした。
山登りは一度滑落事故を起こしてからは止めました。
前立腺癌、皮膚ガンなど病気を克服、治療して元気でした。
母親が目が見えなかったので買い物やら食事などで頭を使っていたようです。
つまり、空虚な老人ではなかった。
ところが母親が亡くなり、元気なのに行動する目的、つまり生きるとでも言うのでしょうか、それが欠落したと思います。
90代を前に食欲を失いました。
特に理由もなくひとり食事をする意欲が失せたと感じています。
食事はやっぱり共に食べるということの大切さですね。
身の回りは同居していた弟夫婦が世話していましたので何不自由なかったと思いますが、一緒に食事出来なかった。
これを見過ごした私の責任は大きいです。
引き取って一緒に食事をしてあげたらと後悔しています。
90代になり心臓、前立腺がんなどで入退院を繰り返しながら最後の半年を一緒に過ごしました。
半年はほぼ生きる意欲を無くした人間の姿を見ていました。
たまに自己主張しますがほとんど寝たきりでデイサービスでもソファーで寝たきりだったようです。
寝たきりといっても最後まで身辺自立は出来ていました。
生きる意欲さえあれば十分生命は維持できたと思います。
意欲を無くしてしまったんだなあと感じています。
最後は前立腺がんが膀胱に広がり腎不全を起こして亡くなりました。
ここで学べるのは老人性痴呆ということについて、確かに人の名前、物忘れやら時間の感覚などは不明瞭になりましたがそれは自然退化だったと思います。
私の両親は精神的には健忘症だったんだなあと思っています。
体の病気は仕方がないと思います。
そんな両親を看取ってまずまずの人生だったのではと思いますし、自分もそうありたいと願っています。
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