スポーツは指導が必要です。
その指導は側から見ると暴力的な指導もあるかもしれない。
1964年東京オリンピックで日本中を熱狂させたバレーボール。
日紡貝塚工場で働きながらバレーボールに打ち込み金メダルは感動的だった。
我々は選手たちがどれほどの肉体的苦痛というか快感というかわからない。
彼女たちは体が小さい分、攻撃力では絶対に勝てないことを知っていた。
鬼の大松と言われた指導者は徹底したディフェンスで鍛え上げた。
つまり、相手がミスするまでプレーするには攻撃を止め続けること。
有名な回転レシーブはそれを体で覚え自然に出るディフェンス。
地面すれすれでボールを拾いまくるテクニックはゴロゴロと転がりまくる。
素早く立ち次に備える。
今のジャパンラグビーそのものだ。
まあ、何年経っても理屈は普遍で攻撃の進化を超えるディフェンスが答えだろう。
その指導のためには選手に向かってボールを叩きつけるしかない。
側から見ればボールを体にぶつけ続ける暴力行為にしか見えない。
それを全てレシーブし続ければ勝てる。
最後は金メダル。
彼女たちが本気だったかどうかはわからないが大松監督はわかっていた。
それを理解するより耐え続け、実際に完成させることで結果が出たということ。
相撲の稽古は理屈ではなく体験でディフェンス力をまずつける。
攻撃は最大の防御だということを体で知ることを指導し続ける。
それを「可愛がり」と表現するのだろう。
間違えても暴力行為ではないと彼らは信じている。
その中に暴力はないのかどうかは部外者にはわからない。
しかし、力士たちはそれを稽古以外で使うことをいとわない。
それが暴力行為だということを理解していないのかしているが止まらないのだろう。
それほど稽古は厳しいことの表れということだ。
まわしを外す、浴衣を着るこれはノーサイドの信号だろう。
ラグビー選手はあれだけ激しくコンタクトしながらノーサイドを知っている。
つまりノーサイドを指導することというか、教えるテクニックを考えた方がいい。
24時間生活を共にするというのは色々な感情を生むんだろうか。
浴衣を着たら心は一変すること。
まわしを外せば社会人。
そんなこと当たり前だろうけど複雑な人間関係で稽古と同じことをやらかす。
それは暴力になる。
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